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眠い…

最近どういうわけかいつも以上に眠いです。
ひたすら眠っています。
本を読み始めれば夢の中へ。
授業中にも夢の中へ。
一日10時間眠ってようやく満足できるくらい。
睡眠時無呼吸症候群とかでちゃんと眠れてないんじゃないか
っていうくらい眠い(それは違うと信じたいけれど。)
体力が落ちてるってことでしょうか。
最近駅の階段をダッシュするのも本格的に
苦しくなってきましたし。
従って学校に行くのはいつもぎりぎりです。
朝ごはんは当然食べられません。
体に良くないな。
どうやったら起きれんのよと言いたい。

生活の方はひたすら金欠です。
冬学期の教科書が高すぎとしか言いようがありません。
旧法令集とか国際条約集とか…
何を考えてるのかってくらい高いです。
普通に買えません。
荷物的にも一番ひどい日は
六法+旧法令集+国際条約集+国際法の資料集
+教科書数冊
という謎の量。
かばんに入らず、泣く泣くカット。
今となっては大分軽くなってきましたが、
一方で授業への意欲もカットされているような
気もします。
がんばらないといけないのにね…

今週以降学園祭やら授業日の振替やら
総長選での休講やらでやや不定期な感じの
日程が続くので時間管理に気をつけたいところですが、
まぁ、休みが増える以外の問題はないのでなんとかなることを信じて…

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議員と首相

最近つい考えてしまうこと。
それは首相と国会議員の地位の正当化の問題。
ほら、某政党の某さんというわけでもないですが
時々聞こえてくる気がするのが(私の妄想かもしれないけれど)
「今の内閣は総選挙という国民の審判を
 受けていないから正統な内閣ではない」
みたいな感じの言葉。
ようは、アメリカの大統領のシステムとかと
比べて選挙を経ずに総理大臣が変わるのは
おかしなことといった感覚なのでしょう。
(国際比較をする能力は私にはないので
こういった事例が他の国にあるのかどうかは知りません。)

しかし、この正統性の確保の仕方はちゃんちゃらおかしい
といえばちゃんちゃらおかしい。
とりあえず、中学生や小学生には絶対言えないですよね。
「だって、日本は三権分立の制度をとっていて、権力が
相互に抑制しあう素晴らしい制度なんですよ」
っていうのが教科書の説明のはず。

制度的には首相にリーダーシップを集中できる
ようなシステムが構築されているわけですけれども、
建前上はそういうことになっているわけです。
リーダーシップをうまく駆使できた人の典型が
小泉首相であって、そのための資源は国民からの
指示だったことは言うまでもないでしょう。
あるいは、元来、小選挙区比例代表並立制なんかの
システムが党首への権力集中の流れをつくろうっていう
ものであるのも確かです。
その点では、現在の教科書は書き換えられるべきなのかもしれません。
三権分立なんて大ウソで、いいとこ、二権分立ですね。
その二つの権力も最高裁の政治介入への謙抑性
は素晴らしいものがありますが。

あるいは、日本のシステムで三権分立をいうのは
官僚機構vs内閣+議会vs司法の構図なのかもしれません。
それが某党がいうところの官僚の統治→国民の統治
の図式なのでしょうか。

横道にそれました。
では、総選挙を経ない内閣は正統性を有しうるかという問題。
以下衆議院だけで考えます。
まず仮に総選挙を経た内閣が正統性を有さないとすると、
選挙は政権選択の選挙かつ首相を選択する選挙
ということになります。
ここでは首相への支持が首相を通して
首相の所属する(多くの場合)与党議員の地位を
正統化するということになります。
(建前(憲法の構造とか)とはおそらく全く逆で
上記の横道にそれたといったような問題が頭をもたげてきます。
図式的には下のような感じ。

国民→首相→議員

しかし、責任追及の形は下のようになります。

国民→議員→内閣(=首相)
(議員を通じて国民が内閣に責任を追及する)

どこか不思議な感じもします。
野党議員はいいとしても、与党議員が
自分の地位の根幹たる首相を追及するという形になります。
議院内閣制では内閣が議会に対して責任を負う
といった形なわけですが、総選挙を国民が直接首相を選ぶ
という位置づけにするなら、
むしろ責任追及は
国民→首相→議員
というわけのわからない構図になってしまう気もします。
首相を通じて国民が議員に対して責任を追及する?
むしろ議員に責任追及しても仕方ないので、
議員を介さず国民が直接首相に対して責任を追及するということになるのでしょうか。
これが何を意味するのか、あるいは何も意味しないのかは
私にはわかりません。

以上は与党の問題ですが、次は野党の問題です。

以上の図式を肯定するなら、
まず、野党はどれだけ惨敗しても党首を変えることはできません。
なぜなら党首の存在が他の議員の地位の正統性を
確保するからであって、党首が変われば、
他の議員の地位の正統性がなくなり
全員が議員辞職をしなければならなくなります。
全部与党で国会をすすめるということになり、
与党の党首が交替するところで次の選挙という形にならざるを得ません。
(そういう意味では今、「選挙を経ていないから
正統性がないと批判する」のは衆院では
ブーメランでしょうか?)

以上は極論であって、議員と首相両方への
信任だということにするなら、議員の地位は
国民の信任に基づくということになりますが、
当然、議員の地位が正統ならば首相の決定法は
間接民主主義的な方法を採用すればよいということになります。
首相の地位の正統化という問題からは
結局、議員を通じた首相への信任といった形
で次の総理を決めるということになるので、
論じる意味はあまりないでしょう。

従って、政権選択は
「政権政党選択」としないと
論理上はうまく機能しないと感じられます。
政党なら(議院外の組織で議院内なら会派ですが)
正統化の問題はクリアできるからです。
というか、ぎりぎり建前としての制度と
運用の理念が一致するのかな。

また、現制度上は首相の地位の根拠はあくまで
議員による信任です。
つまり、「議員を通じた」国民による信任なのであって、
(それも制度上は衆議院議員による信任が優先)
決して、国民の直接の首相に対する信任ではありません。

これが逆になるとやっぱり正統化の制度が機能不全になりそうです。
選挙を経ていないから首相に正統性がないというのは
どう考えても首相公選制の思考であって、
議院内閣制にはなじまないように思います。

従って、議員の信任を得た以上、
総選挙を経ていない内閣というのも
正統性は有しうるということになります。
それが間接民主主義ということになるのではないでしょうか。
日本では命令委任ではなくて、
自由委任が採用されているわけですしね。

小難しく考えてみましたが間違いだらけなのが
間違いないことは付記しておきます。
あと、以上はすべて机上の空論です。
国民感情やらなんやらを考えるとそんな運用は
ありえないということになるでしょう。
これを読んで納得なんてしてはだめですよと
記して今日のチラシの裏をおしまいにしたいと思います。
なんだか、必至だなって言われそうですが、
どうしても疑問に思っていたことを書きたかっただけなのです。

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ご無沙汰しています。

ずいぶん長期にわたって放置していました。
放置しているうちに長い長い夏休みと秋休みが終わって
いつの間にか新学期が始まっていたわけです。
なんたることか、夏休み(秋休み)にやり遂げたことなんて
一つもない。
ひたすらぐだぐだして終わった気がします。

全然勉強もしていないわけで
変わったことといったら
日本の総理大臣くらいです。
身の回りのことについては
というか、能力的には
何にも変わっていません。
(物価は高くなったとか高くなってないとかだけれどね。)
むしろ、最も肝心な法律学の勉強もさっぱりできていません。
従って下がったのかも。

なので、とりあえず、新学期に向けての抱負みたいな
ありきたりなことをブログに記そうと思った次第です。
そうやって心機一転(笑)みたいな。

しかし、法学部の専門科目は教科書が重くて嫌になります。
量があるのに高いからかかるお金も増すばかり。
4教科しか新しく始まる科目がないのに教科書代2万円オーバーとは
どういう了見ですか?
教養過程と比べるとその点でも専門化されています。

しかも月曜日は
旧法令集+六法+国際条約集の
3連コンボ。
鞄に入りません。
肩が痛くなります。
というわけで、六法はあきらめるということになります。
あ、そういえば新しい六法も買わなきゃねorz

ひたすら愚痴愚痴な日記になってしまいましたね。
これ以上書いてももっと後ろ向きになっていくだけだと思うので、
最後に目標を記して終わりにします。

名著の誉れ高き
E.H.カー『危機の20年』(岩波文庫)ですが、なぜか絶版です。
噂によると、というかwikipediaの岩波文庫のページによると
翻訳に問題があるとかないとかよく聞きますが、
この本、品切れ再販未定のようです。
岩波文庫の本にはよくあることなわけですが、
(その点にはもっと岩波さんに頑張ってほしい…)
古書で手に入れるのも苦労ものなので、
(元の値段よりもだいぶ高いわけです。)
仕方ないので、一方ではちょっと背伸びして原書で買ってみました。

Edward Hallett Carr "Twenty Years' Crisis, 1919-1939: An Introduction to the Studyof International Relations"

1日1ページずつでも読み進められたらいいなぁ・・・
とりあえず、大学卒業までに読み切るのが目標です。
(250ページほどのペーパーバックなので
1日1ページ以下の速度ですね汗)





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雷雨

雨がひどく降っています。
雷も鳴っています。
雷が落ちたらどうしようとビクビクです。

今となっては、朝、雲行きが怪しいぞと思いつつも
まだ雨が降っておらず、
ウキウキしつつ新宿に出かけたのが
懐かしい。

新宿に行ったら大雨、
そして、今家に帰ってきたら
近辺が大雨です。
なんだか雨を追って移動した感じ。

それにしても、雷が鳴っている中、
傘をさして平気で道路を歩いている
人たちには尊敬させられました。
普通に驚いて飛びのけちゃいますよ。

あぁ、絶対またどこかに落ちたよ…

電車に乗ったらずいぶんと遅延していました。
雷が原因と思いきや、中央線は
大雨が原因。
英語にするとrainになってました。
なんだか、ニュアンスが違って見えるのが不思議。

埼京線なんかは落雷の影響も
あるとかないとか。

もう今日は家でおとなしくしてます。

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森政稔『変貌する民主主義』

どうやら著者は教養学部の教授さんらしい。

森政稔『変貌する民主主義』(ちくま新書、2008)

を読み終えました。

夏休みの最初の一冊というわけなのですが、
正直な感想を述べると出足で躓いてしまった感じ。
個人的には語り口が苦手でした。
なんというか、すごくカチコチな書きぶり。
固くて、痛い。
そんな感じ。
こんなこと書いても意味がわからないと思いますが、
とにかく、そんな感じなのです。

民主主義思想を概観した本ですが、
根底に流れるのは著者の新自由主義への
嫌悪感という印象です。
カチコチな感じを受けたのは、おそらく
そうした彼なりの確固とした考えを
を隠すことなく書き込んでいるからでしょう。

もう少し内容を詳しく見てみると、
思想家に注目しつつ民主主義思想史を
追っていくというよりは、
現代の民主主義を歴史の中に位置付けつつ、
新自由主義思想の下で、民主主義が
いかように変化しているのかを
上手に説明してくれています。
ここでは、著名な思想家も何人か出てきて、
彼ら自身が何を述べたかというよりは、
新自由主義というコンテクストのもとで、
彼らがどう捉えられているか、
そして著者がそれについてどう考えているか
といった感じの流れが多いですね。

基本的には4章建て。
民主主義下における、
1章 自由主義
2章 差異
3章 ポピュリズムとナショナリズム
4章 主体性
を論じつつ、現代の民主主義の変容を
明らかにしていきます。

が、全体通してなかなか頭に入ってこなかった
感が強かったりします。
偉そうにこんな文章を書いている権利なんてほんとは
ないです。

論で印象に残ったのは
民主主義の限界=政治の限界
とした部分。
(割と傍部分な感じはしますが・・・)
目からうろこでした。
おそらく自然法ちっくな思想から
こういった考えが導かれるのでしょう。
この視点は今までありませんでした。

そして、そうしたことが問題となって
立ち現われてくる前提として、
大衆が権力の側に立ってしまったことが
あると理解しました。
つまり、民主主義が理想として
求められる過程においては
多数者たる大衆は常に抑圧される
被統治者であって、権力に脅かされる側でした。
民主主義にはそうした多数者の権利を守るという
機能があったわけです。

しかし、今となっては民主主義は
そのような効用を失って、
単なる多数者支配に近づきつつある。

これが、私が本書の中でもっとも
興味をもった部分ですね。

以上の議論は新自由主義とはあまり関係ないですが、
新自由主義と民主主義の関係を整理するのに
ピッタリな本が本書でしょう。
興味がある方はぜひ手に取ってみるとよいと思います。

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